· 

【新潟とドイツ~医学との関わりをめぐって】全国日独協会連合会年次総会・記念講演抄録-2019年4月19日

2019年 全国日独協会連合会年次総会 基調講演

「新潟とドイツ-医学との関わりをめぐって」

講師 神林 恒道 氏

 

神林 恒道 氏プロフィール

 

新潟市會津八一記念館館長、にいがた文化の記憶館館長。美学芸術学が専門の大阪大学名誉教授、文学博士。

1938年、新潟市生まれ。京都大学大学院修了、大阪大学大学院教授を経て、立命館大学大学院教授、美学会会長、第18期日本学術会議会員、独立行政法人国立美術館運営委員などを歴任。日本美術教育学会会長、日本フェノロサ学会会長、日本フンボルト協会監事。新潟市の新潟青陵大学特任教授を務めるほか、故郷の文化振興のため県内外で講演活動を行っている。


新潟の医学者たち

 

 かつて国を閉ざしていた日本に、西洋の学術文化が入ってくる唯一の窓口は、長崎の出島のオランダ商館だった。これを学ぶには、まずオランダ語に習熟しなければならなかった。そこから「阿蘭陀学」つまり「蘭学」という言葉が生まれた。なかでも重んじられたのは医学であり、これを教授したのが、鳴滝に塾を構えたドイツ人医師シーボルトだった。大坂に開かれた蘭学塾が、緒方洪庵の「適塾」である。洪庵はやがて幕府に招かれて、江戸に下っている。

 幕末、越後と佐渡に西洋医学を志した3人の先覚者がいた。石黒忠悳(ただのり/注:「のり」の字は「直」の下に「心」)、池田謙斎、そして司馬凌海である。石黒は片貝村(現小千谷市)育ちで、池津で漢学の私塾を開いていた。その頃の弟子の一人が井上円了である。熱狂的な尊王攘夷論者だったが、佐久間象山に出会い、洋学の必要性に目覚め、西洋医学をもって身を立てようと決意した。軍医の道を選び、軍医総監にまで登りつめる。部下となった森鴎外との確執は有名である。

 池田謙斎は旧姓入澤、南蒲原郡西野(現長岡市中之島西野)の庄屋の家柄で、幕府医員池田多仲(玄仲)の養子となり、緒方洪庵に師事した。長崎に赴き、オランダ人軍医ボードウィンのもとで学ぶ。おりしも鳥羽伏見の戦いが勃発し、幕府派遣留学生だった謙斎は友人と海路で長崎を脱出、上海から横浜経由で江戸に戻っている。おりから新政府軍は上野の山に籠もった彰義隊を攻撃、謙斎は負傷者の手当に追われることとなる。その現場で英国人医師ウィリスから外科手術を学んだという。ウィリスはその後、大学東校(後の東京大学医学部)に高給で雇われた。ところが、ボードウィンに学んだ佐賀藩蘭方医相良知安、そして生国はオランダだが米国籍の同校教頭フルベッキの建言により、英国医学を廃してドイツ医学を輸入することが決まり、プロイセンから医師ホフマンとミュラーが来日した。これに伴い、謙斎は官費留学生としてベルリン大学医学部で学ぶこととなる。帰国後は、医学博士第一号となり、宮内省御用掛(侍医)、東京大学医学部総理に栄進している。

 さてここで登場するのが、独、英、仏、蘭、露、漢の六カ国語に通じ、さらにギリシャ、ラテンなど古典語も研究したという語学の天才、司馬凌海である。佐渡島真野町(現佐渡市)の生まれで、諱(いみな)は盈之(みつゆき)、幼名は亥之吉、または伊之助という。司馬という姓は凌海が勝手に作ったもので、おそらく生家の島倉から取ったものではないかという。江戸へ出て、幕府奥医師松本良甫とその養子良順の塾に入った。不羈放縦な性格で退塾させられたが、その奇才のゆえに、再び佐渡から呼び戻されている。

 幕府から医学教育のために、長崎に招聘されたオランダ人軍医ポンペの所へ、良順が弟子たちを伴って派遣されたとき、助手として帯同したのが凌海であり、その講義を逐一通訳した。ここでも不謹慎な問題を起こし、佐渡へ帰島している。しかし維新後、新政府の医学校の教授となり、ウィリスの英語の通訳をしている。オランダ語以外はすべて自修したもののようだ。ドイツ医学が正式に採用されてからは、凌海の独擅場(どくせんじょう)となった。ホフマンは、その巧みなドイツ語に驚き、あなたは何年ドイツにいたのかと尋ねたほどだった。凌海はわが国で最初のドイツ語塾「春風社」を開き、明治5年には独和辞典『和訳独逸辞典』(東京春秋社合著)を出版している。漢学の素養も深く、たちどころに医学用語を翻訳造語してみせたという。「蛋白質」「十二指腸」なども、かれの発明によるものだ。その後、名古屋に移り、公立医学所(後の愛知医学校、名古屋大学医学部)教授、愛知医学校校長を努めたが、肺結核により38歳で没している。

 ちなみに最初の結婚でもうけた一人息子の享太郎はドイツ語学者で、陸軍大学校教授を経て独協中学校長となった。次女文子は、父の死後、一家が佐渡に帰るに際し、本因坊家など囲碁の家元の一つである林家の養女となり、女流棋士の先駆となった。能楽の喜多家に嫁ぎ、喜多文子と名乗る。大倉財閥の二代目喜七郎とともに「日本棋院」設立の功労者であり、「囲碁界の母」とも呼ばれた女傑であった。凌海の事蹟について詳しくは、司馬遼太郎『胡蝶の夢』を読まれたい。

 

 

大阪大学名誉教授

會津八一記念館館長

にいがた文化の記憶館館長

神林 恒道


医学用語を発明した

語学の天才

司馬凌海

1839~1879

日本初の医学博士

明治天皇の主治医

池田謙斎

1841~1918

日本初の

私立医学校を創立

長谷川泰

1842~1912

森鴎外の上司

陸軍医総監

石黒忠悳

1845~1941

日本人の起源追求

解剖学の先駆者

小金井良精

1859~1944

多くの内科医育成

大正天皇の主治医

入澤達吉

1865~1938

ダウンロード
「越佐の医学者たち」レジュメ_JDGN_20190419.pdf
PDFファイル 138.7 KB
ダウンロード
肖像写真資料_JDGN_20190419.pdf
PDFファイル 748.4 KB

*当日配付いたしましたレジュメおよび資料を、神林恒道氏のご許可をいただき掲載いたしました。

 なお、「越佐の医学者たち」は過去の著作『にいがた文化の記憶』(新潟日報事業社)からの引用改稿です。