【クラウドファンディングの記録⑦】新潟ドイツ領事館について③

*クラウドファンディングの際に、Readyfor様のWEBサイトを通じて投稿した内容を、記録のため再編集し掲載しました。

 一部表現が、クラウドファンディング用のままとなっておりますが、ご容赦ください。

*現在、クラウドファンディングによる募集は終了しており、通常の寄付募集のみ行っております。

 記念碑建立の趣意書および寄付先はこちら→新潟ドイツ領事館跡記念碑建立

さて、今日は、「領事館の閉鎖(領事の離任と帰国)」についてご紹介します。

公的文書により確認される閉鎖日は?

会員研究者の調べでは、1882年「5月8日付けの返書でライスナーの辞職及び新潟領事館閉鎖が承認された」そうです。アイゼンデッヒャー公使は、「日本政府に対してもドイツの正式決定を告げた。すなわち7月11日、井上馨外務卿に対して(略)通知した」とのことです。


さすがに領事館となると、送別宴も多く開催されたようです。

なんと、「6月27日(ライスナー主催)、6月28日(新潟税関主催)、6月29日(新潟県庁主催)と3夜連続で宴席が」あり、「最後の宴は7月1日の県庁主催であった」ようです。

ライスナーには家族がいた?

ライスナーが新潟を離港する際に、永山盛輝新潟県令に対して提出した「説明書」によると、「それまでライスナーと同居していた日本人女性及びその女性とのあいだでもうけた女児のために、彼が3,000円相当の財産を地元商人に託することなどが記されていた」そうです。

 

同居していた日本人女性?もうけた女児?

ライスナーには、日本人女性の妻とその子どもがいたということでしょうか?

 

私は新潟ドイツ領事館やライスナーを研究した会員の方から、初めてこのことを伺ったときが、一番驚きました。まさかまさか、そのようなドラマが潜んでいたとは思いもよりませんでした。

 

ただ、参考文献筆者の青柳正俊会員(当協会理事・事務局長)にお話を伺ったところ、この女性や子どもの名前など、詳しいことはまだわかっていないとのことでもありました。もし今後、何かが判明し、そのご子孫の方と新潟とドイツ、当協会を結ぶご縁があるならば、新しい何かが生まれる予感がしてきます。

ライスナーの新潟離港から晩年まで

ライスナーは、新潟から横浜に立ち寄ってから帰国の途についたそうですが、「8月6日に免職辞令を受け取」り、「8月11日、イギリス蒸気船『コプティックCoptic』に乗船して横浜を出航した」そうです。

 

帰国後、ライスナーは、1883年4月に結婚し、1886年5月には「親戚が営む染織会社(C. A. Köttgen)の支配人」なりました。そして、1926年12月26日、享年86歳で逝去されたそうです。

参考文献から引用しながら概要をお伝えしてきましたが、実は、ライスナーに対する史料は他の居留外国人に比べてあまり残っていないようです。ライスナーと一時期パートナーを組んでいた商人のウェーバーは、彼自身による文筆資料が比較的多く残っているにもかかわらずです。

 

そして、ウェーバーの書き残した資料に書かれているライスナーの情報は、悪口ばかりとのこと…なにやら、人間模様・ドラマがいろいろとありそうですね!

まだまだ研究も続いています

上述のとおり、なかなか史料も残っていないのですが、今月、当協会の会員が再度ドイツ・クレーフェルトを訪れ、さらなる研究を行ってくる予定です。もしかしたら、新情報出てくるかもしれませんね。そちらも楽しみです!

 

 

<参考文献>

『在新潟ドイツ領事館について』(青柳正俊、新潟県立歴史博物館研究紀要 第18号 別冊(2017年))

*当協会会員の歴史研究報告論文から引用しながら、私なりの言葉でご紹介しました。